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 論文

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「 自己同一性の形成と精神的発達 」


ジョセフ・オザワ博士

臨床心理学者

オザワ博士は、ハーバード大学で学位号と修士号を取得後、南カリフォルニア大学で博士号を取得し、
日本においても、2003−2005年にかけて、うつ病、ホームレス、トラウマ、自殺、不安障害、 恐怖症、
青少年問題などに取り組んでこられました。

1940年代から1950年代にかけて、スイスの心理学者ジャン・ピアジェが、精神運動の発達段階の概念を紹介しました。ピアジェ博士に続いて、ハーバード大学のエリックH.エリックソン博士は、「精神運動の発達」と情動発達の段階に関する不朽の分析をしました(Identity: Youth and Crisis, 1968; Identity and the Life Cycle, 1980)。精神分析と縦断的児童研究のこの優れた統合において、エリックソン博士は、妊娠から死までの私たちの人生を、避けることのできない、また予測可能な、心理社会的段階を通る発達として説明しました。

彼の発達理論の中で、多分最も研究家の心を捕らえたのは、「自己同一性形成」の概念であると思われますが、これは、基本的に、「自分は何なのか」に焦点を当てた思春期の課題であり、独自の民族の独自の歴史的背景における各人独自の価値の関連付けです。

自己同一性段階をうまく乗り越えた人は、将来、成熟し成長できる性格を持つことができます(これを「自我統合」と呼ぶ)。成長できる自己同一性を形成できない人は、「自己同一性の危機」あるいは「自己同一性拡散」を体験しますが、これは、自分の将来、キャリア、価値、人間関係から尻込みすること、引きこもることを意味します。このような人は、成長が止まります。このような人は、キャリヤを築いたり、人生を軌道に乗せたりすることができません。また、このような人は、発達の次の段階である「親交」、つまり大人としての愛と家族形成に通じる心のふれあいに進むことができません。「自己同一性の危機」は、心理学者や心理療法家がよく使う言葉になりました。

過去25年間、3カ国で臨床心理学者の仕事をしてきた私は、どの国においても、この自己同一性の形成が情緒面の健康に大切であることを発見してきました。根本的に、私たちはみな、自分が何であるかを明らかにする、あるいは再発見しなければ、基本的に、感情的に健康で生産的になることはできません。

私は、この自己同一性の本質的な探索は基本であると思っています。それゆえ、養子になった子供は、自分の生みの親を探します。このルーツを知りたいと言う深い願望は、アフリカ系アメリカ人が自分の先祖のルーツをアフリカ大陸で捜し求めたアレックス・ヘイリーの「ルーツ」(1977)があれだけポピュラーになったことにも見ることができます。三世として、私もこの再発見の旅路にたち、日本の富士山のふもと、静岡にある自分の先祖の故郷にたどり着きました。それまでエジプト王家に隠れていたヘブル人であり、自分の権力と贅沢な人生を犠牲にしてまで、ヘブル人の同胞を襲ったエジプト人を止めたモーセも同じです(出2:11)。モーセの自己同一性の追及は、最終的に、彼を国民の解放者という壮大や役割へと導きました。

この意味で、外国がほかの国を「植民地化」し、「異質性」をその国に強要すると、自己同一性の危機あるいは(エリックソンの言葉を使うと)同一性拡散が起きます。これは、イギリスで弁護士としての教育を受けながら、インドの伝統的な「アシュラム」に住み、インドの伝統的な「ドーティー」(腰布)をつけて「チャーカ」と呼ばれる機織をしてインドのシンボルになったマハトマ・ガンジーを思い出せば、分かると思います。インドの全国民が、非植民地としての自己同一性の正当性を発見したのです。

何年も前のことですが、私はボルネオ奥地のケラビット村で、私がアメリカ人だと知って興奮していたクリスチャンの村人に会ったことがありました。彼は、私を座らせて、ディーゼルの発電機をつけて、ビデオテレビをつけたのです。彼は別の部屋に入ったかと思うと、白いスーツを着て髪の毛をオールバックにして出てきました(それまでは短パンをはいていただけで、シャツも着ていなかったのです)。このケラビット部族の一員は、私が驚いている様子を見ると、ベニー・ヒンのクルセードのビデオをつけました。この村人は通訳を通して言いました。「分かりますか。私はこの白いスーツを買ったのです。見てください。私は、有名なベニー・ヒンのような偉大なクリスチャンの牧師になるのです。」

世界中の何百万の人が、精神的正当性を持つためには、自分の文化的、歴史的、伝統的やり方を捨てて、あるいはそれを否定してまでも、外国の文化ややり方に従わなければならないと考えて、その自己同一性を捨てたことでしょうか。私は、アフリカで、貧しい村人たちが、暑さのゆえにほとんど裸ではだしで何キロも歩いてきて、伝統的なアメリカのニュー・イングランド地方の田舎の教会のような形をした教会の前で、革靴やドレスや西洋のスーツに着替えていた様子を思い出します。礼拝が終わると、日曜日用の服を脱いで、きれいにたたんで丸めて、頭の上に乗せてバランスをとりながら、村への長くほこりだらけの道のりを歩いて帰るのです。同じように、普段お酒を飲んだり、きれいな焼物で緑茶を飲んだりして、靴をはかないでたたみに座っている田舎の日本人が、ぶかぶかの服を着て日曜日に教会に行くのを見たことがあります。彼らは、そこで、座り心地の悪い木の長いすに座り、靴、スーツ、ネクタイ、西洋風のドレスを身に着けて、西洋のメロディーの西洋の賛美歌を、アメリカから輸入したオルガンの伴奏で歌い、その後、ヨーロッパから輸入した銀の聖杯に入れた赤ワインとパンで正餐式をするのです。

神学校の学者たちは、適切な文化的歴史的ルーツを発見することを、「文脈化」と呼んでいます。ドン・リチャードソン(Peace Child; Eternity in Their Heartsの著者)は、イエス・キリストの福音を伝える習慣や考え方を文化の中に発見することができるということを、「贖いの共通点」と呼んでいます。使徒の働きの21章は、割礼が救いの信仰に欠かせないものであるかどうかに関する(元ユダヤ人リーダーとして知られていたサウロこと)パウロの挑発的な物語です。パウロは、「割礼を受けないと救われない」(使徒15:1)という考えに異議を申し立てました。パウロは、救いは信条、愛、イエスに対する信仰の問題であり、多くの場合肉体的な割礼と言う外面的証拠によって確証されるユダヤ人の自己同一性を受け入れることではないと言うことを、強く主張しています。

発達心理学の観点から見ると、健康的な情動発達と人生の局面をうまく乗り越えていくためには、人は、その国、部族、文化的伝統を、外国の考え方を受け入れるために拒否してしまうのではなく、それらを導入する、あるいは奉じることが必要なのです。したがって、信仰が割礼よりも霊的に大切であると言うパウロの主張、アレックス・ヘイリーのアフリカのルーツの探索、ヘブル人との血のつながりのゆえにエジプトの特権を捨てたモーセの行動、スーツとベストを着た弁護士から半裸でドーティーを着て機織をしているガンジーの変容などは、みな、中心的な心理的健全性、全体性、感情的真実の追究なのです。

心理学的に見て、自己同一性を失うこと、あるいはエリックソンの言葉を使うと、同一性混乱または同一性拡散が、不均衡をもたらし、「自己同一性の危機」を引き起こすのです。これでは、心理的に分裂し、分離し、統合されていない人格を生み、人生から引きこもり、優柔不断で混乱し、次の段階の親交に進むことができなくなります。

日本人が、自分の文化的伝統的ルーツを否定するのではなく、それらを受け入れることによって精神的に成長し、彼らの精神的宗教的生活の中に茶道、書道、生け花、琴や三味線や尺八などの伝統的な楽器、着物などの要素を取り入れることができて初めて、彼らは「自己統合」と「感情的一体化」を達成できるのです。 心理学者として、またイエス・キリストに仕えるものとして、私は西洋人でないクリスチャンのカウンセリングを多くの国でしてきましたが、クリスチャンが、イエスが霊的に彼らのために死んでくれても、彼らが伝統的文化的自己同一性を否定して「西洋的」にならなければならないと信じると、混乱した、弱い、感情的に不健全な霊的生活に陥ることがあるということは、明確です。この内面的な二分法のゆえに、多くの人がキリスト教を西洋文化と混同しています。彼らは、神を愛するようになりましたが、自分自身の自己同一性を嫌うようになったのです。

しかし、最終的に、西洋以外のクリスチャンは、彼らの感情的回復力と自己同一性の強さが、彼らのために死んだだけでなく彼らをそのまま受け入れてくれるキリストから来ることを知らなければなりません。神の愛の力は、神が、民族独自の歴史的背景における各人独自の価値のつながりにおいて私たちを受け入れてくれることに表されています。段階的発達の本当の心理的感情的生存能力、エリックソンの、人生における基本的課題である自己統合と健全な自己同一性の形成の成就は、ケラビットの部族がよりケラビット人らしくなり、インド人がより確かにインド人になり、日本人が(日本人らしくなくなるのではなく)より日本人独特の日本人になることによって、達成することができるのです。

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